The love that breathes

例えば空を見上げるような.

GratefulなRebirth(優しさの形)

Rebirthしたのだ。文字の通り、まさに、そのままに。

そしてそれは剛さんにとって、Gratefulなことだったのだ。

それがこのミニアルバムの要旨で、最も重要な事実だと思った。

 

誰かを救う方法に答えはなくて、ただ親身に寄り添うことで救われることもあれば、現実を直視させて鼓舞することで救われることもある。

剛さんはこれまで前者をとることが多かったけれど、今作では後者を手段として形にした。上辺だけの暖かさではなく、強さに、大きな愛に裏打ちされた優しさ。

そしてそれをリスナーに向けてもいいと思った。

これまではきっと、形にする過程で「聴き手がどう感じるか」を考える瞬間が大なり小なりあって、前作「Tu」においても一匙のそれは練りこまれていたように思う。

今作にその優しさはない。剛さんが信じる、何も知らない人が見れば諫言のような、けれど本当に相手を思っていなければ向けることのない大きく強かな優しさ。これまでほとんど形となってはいなかったものを、贈った。

 

受け手はその結実を、1曲1曲1音1音、一言一言を真摯に受け止めなくてはならない。

それが剛さんの強く優しい愛への誠意だ。

 

 

 

剛さんの歩みの中で。去年のTuFunkライヴで四季が一巡りしたんだと思っている。

右も左も見えぬまま歩き出した、まるで新学期のような多くの不安と僅かな期待を胸に抱えた春。

梅雨を孕み、空が泣いて。照り付ける太陽の下、龍やバッファローを従えて勇猛果敢に舞った夏。

日暮れが日増しに早まり、白と黒、光と影がすれ違う中、暖かさを求め掌をこすり合わせるように己を紡いだ短い季節、秋。

次にくる新たな季節へ向け、春から秋まで得た仲間や経験や音楽を結実させた、小春日和の続いた冬。

そして2回目の春。四季を巡った剛さんは自身の生きる道を、こうしたいではなく、こうする、という半ば事実として見据えたのだと思う。そしてこの先も、大切な仲間、オーディエンスとともに、新たな世界を、新たな声を見つけ、手にしていくのだと思う。

 

 

Panic Disorderだった剛さんも、実像から遠ざかる恋人への心の恋人も、それは過去であり過程であり、もうそんな風に傷を露わに歌う剛さんと会うことは一生ない。

Neo Africa Rainbow Axのような、開いた眼で辺りを見据えた音楽で、臨戦態勢に構えた剛さんと会うことは一生ない。

…のかな、と茫洋にそう思いました。今作の音の抜け方、声の力の抜け方に、そう言われたような気がしました。

 

 

 

おまけです。

自分自身の中で1つ決めているルールがあって。それは、剛さんの産み出す音楽を手元で初めて聴くときは、自室の暗闇の中で、何も見ずに聴覚だけに集中して聴くこと。今回は加えて雑誌を読むのも控えて、先ず音に込められた魂を感じたいと、聴いたのです。

14年前から続けていて、多くの場合どくどくと鼓動の高鳴りが止まらずに発汗するくらいのことのほうが多いのだけど、

今回は8曲、ただただずっと寒気が止まらなかった。それは剛さんが新しい世界を歩きだされたことへの畏敬のような、そんな怖くて嬉しい観念が全身を駆け巡っていたからだと思う。今の私はこの御大の優しさと愛情に応えるだけの心の美しさがあるだろうか。澱みない胸を晒せるだろうか。

晒せないのなら、おのずから、今からだって、するしかない。剛さんが光を当てる、GratefulなRebirthを果たせるように。

 

明日からまた頑張って生きます。剛さんに恥じることのないように。