The love that breathes

例えば空を見上げるような.

理を超えて

堂本 剛 東大寺LIVE2018

 

少し前のことですが、円盤をみました。

 

私はこの現場にいろいろなことがあって結果伺うことができなくて、

終演後Twitterを覗いてもこう、うまく言葉にされているかたが少ない印象があって、ああそこにはどんな時間が流れていたのだろうと。

そう思ってから暫く、SONGSであの「街」の涙の場面が映って。言葉にならなかった空気の片鱗を拝見した心地がして。

それから映像化の一報、手元に届いても纏まった時間がとれるまでは目にすることができませんでした。

 

 

 

 

冒頭の一声だけで、歓声をやんわりと遠ざけるような。ここは祈りと祝詞の世界で、声や楽器はそれを伝える現代での手段・形なのだと宣うように。きっとオーディエンスはあの時間を目撃したという表現が正しくて、例えばそこに誰も居なくても、あの人達は御仏に向かって音を捧げていたのだと思う。

1曲目「…ラカチノトヒ」のアレンジに総毛立った。剛さんの表現、その引き出しはいつもいつも新しく目を見張ることばかりだけれと、神聖とはこれを指すと表して過言でないような音楽だった。言葉が言葉でありながら、歌詩が歌詩でありながらそれを超越して魂に、信仰に注がれていくるような感覚がした。イージーに言えばこのアレンジでのこの曲好きすぎる。

剛さんはそこに立つようでそこには居なくて、遠く近い時空を、大仏さまが静謐に綴ってきた時間を遡りまた進み…自由自在に、そしてほんとうに柔の心で寄り添い慮り供にした刻だったのだと思う。瞳にはハイライトがなくて、ここを見るようで理の異なる世界を見て浸り佇み感じていたような気がしている。

奏でる全ての音が、人が、ただ御仏の為、その時間御仏に添い遂げるためにそこに存在していて。親愛も羨望も安寧を祈る感情も折り重なる一音一音すべてが佇む神仏のために。あの年平安神宮でみた剛さんは水の巫女だったけれど、この日佇む剛さんは仏の神聖なる従僕、天女が如くその身を捧ぐ存在だった。

 

「街」をみた。暫く視線を伏したままどこか朴訥に歌を進める剛さんが、はたと口を噤んで言葉を逸した。喉元をくっと握って締められたような気がした。気管に指が添えられたようで息ができない。失って携えて得て手放した様々がこの日迄歩んだ剛さんの傍に中に真心にあった。寄り添い宵闇に揺蕩っていた

その歌詩に、あの日傷ついていた己が綴った言葉に己の胸を穿たれて、それでもそれでもマイクを握りギターを抱えてそこに立つのが堂本剛なんだなぁと。今この日まで様々を内包して包含して悲しみも痛みをみんなお腹の底で傷口を未だ晒したままそれでも笑って歌ってくださることにただただ頭が上がらない

たしかにそれはある意味音楽に救われたという剛さんの業なのかもしれないけれど。あの環境で無数の二対の眼球に晒されなければならない謂れも必然も取り払える筈で、けれどけれどそれでもこうして膿む心根を見せてくださって、その姿に命を掬い取って頂くこと。それだけで愛をする理由には十二分だろう

捧ぐ為の時間だったあの空間に、スティーヴさんの言葉で街かPINKを歌うことを提案されて。ある意味自我から離れていた剛さんが十川さんの鍵盤の音色でふいと身体の容れ物の中に戻って(剛さんがデリケートな音楽をする時はじめに寄り添うのはよく十川さんであられる)、人の形を得ながら歌う。鳥肌だった

 

照明、奈良のくらやみに溶け込む色彩は時に豊かだけれど決して喧しいものではないとりどりの光。大仏さまのあらせられる中の天井照明とか、どんな風に剛さんはあの空間を想像して色を配しその居室のなかを照らす事を描いたのだろう。堂本剛の頭の中に広がる世界は40年経ってどれ位可視化されたのだろう

流れる音楽に耳を傾けると、長い時間の中でいま汚れたまま生きる生命体に諦念と許しを恵んで頂いているような気持ちになる。人の行いは時に世界を壊すけれど、いまきみが例えば転んで膝を打って泣いても、それは悠久の流れから見れば些事なのだから。良くも、悪くも。だから生きたいように生きなよと

剛さんが時折虚空に掲げる腕。ゆるゆると動く指先に過去も未来も一緒くたに絡め取って貰えそうだ。今の世界と今とは理の異なる別の世界へ。

あの大仏さまバックでその前正面に立つ剛さんを中央で抜く前後のカメラの剛さんの画がめちゃめちゃにつよくて…御加護を受けているような、宣託を受けた代弁者のような。支配的でも高圧的でもない、けれど確かに圧倒されて抱きかかえられてもう戻れないと悟るような…そんな気持ちになる。 

 

SUMMER SONICで雄ぎらつかせながらサングラスで視線を隠してプロジェクトネームの黒地に白抜き文字背負い色気と余裕を綯い交ぜに立っていた剛さんと、東大寺でまるでこの世でない場所に魂を浮かべた様にしながら瞳の艶を取り払い柔い光の中で大仏さまに捧ぐ言霊と音を綴る剛さん。同一人物なんだよなぁ

 

 

 

本当は曲目ごとの彩りについても書き連ねたいのですが、初めて目にした時間の総体に吸い込まれるような感覚で…もっと素直に言えば、書き連ねるためにもう一度見るには自分の心をもっと整えないとこの時間には向き合えないと思うので…またの機会にしたいと思います。

剛さんにとって叶う日が、どうかこれからも増えていきますように。

 

 

 

 (追伸:コメント欄へお言葉を頂いた方へお返事を書きました。違う記事への追加ごめんなさい。。。)